1990年代の外国人選手【3】
85年の、夢のような優勝は過去のものとなりました。それから続くはずだった「黄金期」は夢幻となったことに、ファンが気づくにはそう長い時間は必要なかったのです。
その兆候は、獲得する外国人選手たちにも現れていました。80年代以上の、使い捨ての時代。中には見捨てられてもやむを得ない選手もいましたが、ならばなぜそんな選手を獲得したのか。国内ドラフトも含め、選手補強がまるでなっていなかったようです。
監督のクビをすげ替えて満足する時代はとうに終わりました。根本的な改革を為さない限り、この球団の発展はないかも知れません。
デヴィット・ハンセン(David Hansen)
90年にメジャー昇格、ドジャース入りする。93年には全米オールスターの一員として来日している。
さらに95年には野茂とともにプレーもしている。
実績もある上にやる気も満点、インセンティブ契約にタイガース優勝を盛り込んだのもの話題になった。
7月には3試合連続ホームランするなど一時的な活躍はしたが、長続きしなかった。そこそこ勝負強い面もあったと思うが、率、本塁打ともに期待はずれで、この年限りで解雇された。
99年にドジャースへ入り直し、00年には年間代打本塁打7本を放って、大リーグ新記録を作った。
デジ・ウィルソン(Desi Wilson)
メジャーに上がったのは96年シーズンの一部のみ。あとはファーム暮らしである。29歳になっていたが、阪神は若さと適応力に期待した。ウィルソン本人も、「日本で打撃技術を磨く」と謙虚な姿勢を見せた。そのせいというわけではなかろうが、開幕からファーム暮らしとなる。
パウエル、ハンセンを抜くことはできず、1軍に上がることは滅多になかった。身長204センチ、体重104キロというがっちりした体にも関わらず、ミートポイントが悪いのか、とんと長打力がなかった。
真面目な選手だったが、この成績では1年解雇もやむを得ないか。
ダレル・メイ(Darrell May)
98年のオープン戦終了間際に入団。ローテーションの中心として投げた。1年目は4勝9敗と振るわなかったが、これは貧弱なバックのせいといった方がいいだろう。とにもかくにも、懸念の先発投手、それも待望の左腕が手に入ったのだ。翌年も先発陣の柱として活躍する。
が、ふがいない打線、穴だらけの守備陣にウンザリしたのか、判定を不服として審判に暴行して出場停止になるわ、悪し様に首脳陣(特に野村監督)批判をやってのけるわ、モラル面に問題ありとされた。
最後には、ノムラのもとではプレーできない、きちんと援護してくれるチームがいいとして退団する。
99年、念願の巨人に入団、熱望していた強力なバックを得たメイは十分に力を発揮、12勝をあげたうえ、防御率もグンと良くなった。翌年も2ケタ勝ったが、長嶋監督の投手起用に不満を持ち、メジャー復帰を希望して01年限りで退団した。
リベラ(Bienvenido Rivera)
ドミニカ出身。87年ブレーブスに入団し、93年にはフィリーズで13勝してWシリーズ制覇に貢献した。95年に右肩を故障し翌年は3A暮らし。97年に台湾プロ野球入りして5勝5敗24Sの成績を残した。そこを阪神に目をつけられ98年に入団。
2メートル110キロの巨漢で、太りすぎを懸念する声もあったが、2勝3敗27Sと立派にリリーバーとしての成績をあげた。翌年はやや成績を落としたところに、8月には右ヒジを故障し、アメリカへ渡って手術。完治の見込みなしと判断して、そのまま解雇した。
マーク・ジョンソン(Mark Johnson)
95年にメジャー昇格。来日当時は32歳で、まだバリバリ活躍できる若さだった。外野手登録だったが、しばしば一塁も守った。開幕から突っ走った中日を捉えて、阪神が首位に躍進した5月には7ホーマーして主砲として働いた。以後、タイガースの調子が落ちると、同じように打率も低下し、後半はスタメンから外れることも多かった。それでも、最下位に喘ぐ阪神において、4番としてそこそこ頑張った方だろう。まだ若かったし、思ったより三振も少なく、またいいところで打っていたように思えたので、1年限りでクビにするような成績でもなかったのではなかろうか。
筆者がよく憶えているのは99年のナゴヤドームでの中日戦。ドーム最終戦だったのだが、この試合は2-1で中日リードのまま9回を迎える。マウンドは抑えの宣だったが、走者2人を置いて、代打に出たジョンソンが逆転3ランをかっ飛ばしたのである。
もっとも、この試合はその裏に山崎が再逆転のサヨナラ3ランを打ち込んで、中日が劇的な勝利を収めたのであるが、絶対的なリリーフエースの宣から代打で逆転ホームランを打った、ということで、このジョンソンは本当に印象的な選手だった。
マイク・ブロワーズ(Mike Blowers)
90年にパイレーツのドラフト1位で入団。その後マリーンズに移籍し、94年には21歳8ヶ月でメジャー入りしたが、これは同球団でのメジャー昇格最年少記録だった。98年は3Aながら14勝を挙げ、翌年の6月末、ぎりぎり(外国人選手契約は6月いっぱいまで)で阪神入団。先発投手陣の一角を任されたが、思うような成績はあがらなかった。ただ、同年8月22日の巨人戦では自ら決勝ホームランを放って勝利投手になっている。
それでも、わずか2勝しかできず、防御率に至っては6点近かったため先発投手としては失格の烙印が押され、翌年はリリーフとしての仕事が回ってきた。しかしながら、これも毎試合のように失敗を重ね、5月末にはとうとう2軍落ち。当然のように、その年限りで整理された。
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