1980年代の外国人選手【2】
カオスでした。もうとにかくとっかえひっかえ。ちょっとケガをした、使えないとなればすぐにクビ。そして新たに獲得する。使い捨ての時代だったのです。タイガースのために来日した外国人選手たちにとっては受難の時代でした。そんな中、神様がやってきました。その神様は、長年バカにされ続けてきた虎党に救いの手をさしのべたのです。彼の名は…。
スティーヴン・ラム(Steven Rum)
当時、1軍登録可能な外国人選手は2名だった。が、支配下選手内には3名まで許可されていた。
しかし、1軍では2名しか出せないので、どの球団も2名雇うのが普通だった。そんな中、阪神は、70年代後半から前年までにかけての、外国人選手獲得失敗に懲りて、保険の意味でもうひとり獲ることにしたのである。そこで加入したのが26歳のラムだ。
そういう意味で獲得したのだし、ラム自身も焦りはなかったろう。ところが、思ったより早くチャンスが訪れる。デードが古傷を悪化させ欠場、そのまま退団する。さらに穴埋めに獲ったゴンザレスまで不振とケガで1軍に上がれない有り様である。
しかたない、ラムを使おう。そのための選手だ。首脳陣はそう考えたろう。
で、まあ、これが大したことはなかった。もともと補欠以上の意味合いはなかったのだからある程度仕方ないだろう。チャンスは巡ってきたが、思うような成績は残せなかった。普通に考えたら阪神なら1年でクビの成績だが、どうせスペアである。来年も保険の意味で置いておこうか、年俸も大したことないしってなもんだろう。
しかし2年目はほとんど出番はなかった。なぜなら神様が入団してきたからである。もはや彼の出番はなかった。この年限りで解雇。
スティーヴ・ストローター(Steve Stroughter)
ラムは実力不足で解雇したが、ラムのような選手は必要だと、タイガースは認識していた。登録した外国人選手のケガや思わぬ不振対策の保険という意味だ。そうしてストローターはマリナーズから入ってきた。186センチ85キロのガッチリした体からの長打が売り物だった。
阪神の思惑通りアレンが骨折(いや別にタイガースがアレンのケガを望んでいたわけではないだろうけど)し、ストローターを1軍に引き上げることにした。このチャンスに、ストローターは打撃でアピール、一ヶ月半ほどの間に5ホーマーを打ち込んだ。悪くはなかった。
が、ここでアレンが復帰してしまう。ストローターはファームに落ちるしかない。まだチャンスはあるだろうと思った。
しかし、もうチャンスはなかったんだなあ。アレンが無事にシーズンを過ごした、というのではなく、投手陣の不振が深刻になり、外国人投手を獲得することが決まってしまったからだ。外国人選手枠の問題で、新外国人投手との契約が結ばれると、ストローターは退団を余儀なくされた。わずか2ヶ月にも満たない活躍期間だった。
リチャード・オルセン(Richard Olsen)
打線強化もいいが、阪神はそれ以上に深刻な問題を抱えていた。投手不足である。60年代の投手王国も今は昔。タイガースは打つだけのチームに変貌してしまっていた。となれば、困った時の外国人頼み。投手を補強しよう、ということになる。そういう話はこれ以前にも出ていたのだが、どの球団でも外国人投手に泣かされていた。つまり、ロクな投手がいなかったのである。メジャーでも投手は不足していたわけだ。
しかし阪神にはバッキーという偉大な先人もいた。夢よ再び、ということだろう。
とはいえ、選考には時間がかかり、入団したのは7月になってから。不振を極めていた投手陣の補強となるべく1軍登録され、先発のマウンドに登った。速球、変化球、コントロール。どれをとっても凡庸だった。抑えに回したこともあったが、これも危なっかしいし、本人も望んでいなかった。
オルセンが調子を取り戻す前に、不振だった日本人投手団が立ち直ってきてしまった。
しまった、早まった。ストローターを切るんじゃなかった。と、ほぞをかんでも後の祭り。まあいい、投手なんか何人いたって困らない。もう1年置いておこうとなったが、翌年は今年よりさらに悪かった。
実力的に苦しかったのだろう。当然のようにこの年で解雇。
その後オルセンは、セミプロのイタリア・リーグで89年まで現役を続けたという。
ランディ・バース(Randy Bass)
タイガースファンにとっては、忘れようにも忘れられない神様。それがバースにふさわしい称号だろう。1985年の優勝は、掛布、岡田、真弓と日本人選手も頑張ったが、バース抜きではあり得ないものだったことは万人の認めるところ。
地元のオクラホマ大を出たあとプロ入り。メジャー昇格は77年のことだ。以降、ツインズ、ロイヤルズ、エクスポス、パドレス、レンジャースと渡り歩く。マイナー9年間で本塁打王を4度も獲得するなど長打力は抜群で、打率も高かった。メジャー昇格後も4番を任されてホームランを連発することもあったが、レギュラーが復帰したり、自らが不振に陥るとあっさりスタメンから外される日が続く。そこに飛び込んで来たのが日本のタイガースからのオファーだ。
初年度はシーズン途中の来日で、いきなり35ホーマー。打率.288も悪くない。にも関わらず、この成績でバース解雇の話もあったというから、阪神というところは恐ろしい。規定打席内での本塁打率はリーグ最高で、マイナー時代を彷彿とさせた。
翌年は3割をクリアしたものの、ホームラン、打点ともに成績を落とした。が、万事控えめでチームメイトとトラブることもなく、首脳陣の言うこともよく聞いた。
彼が本領発揮するのは3年目以降になる。前2年でも十分に合格点を与えられる成績だったが、85年の結果はそれを吹き飛ばした。なんと三冠王を獲得してしまうのである。実際、他球団から見れば凄まじいほどの打棒を奮い、あのダメ虎を優勝にまで導いてしまったのだ。20世紀内に阪神優勝はない、というのが一致した見解だったから、これには多くのファンが度肝を抜かれた。
またこの年は巨人・王のもつシーズン55本塁打記録を打ち破るチャンスだったが、バースにとっての不幸は、チーム最終2連戦が巨人戦だったことだ。初戦の巨人先発・江川卓は堂々とバースと勝負して、ファンはもちろんバース本人やタイガース内からも喝采を浴びたが、最終戦はひどかった。
オール敬遠。5打席20球すべてボールである。言うまでもないが、その時の巨人監督は王である。この件に関してのバースのコメント。「残念だが、まあいいさ。140試合で55ホーマー(王の記録)と、130試合で54ホーマー。どっちが上だと思うかい?」
86年は、若手を積極的に起用するという吉田監督の方針の方針に対し選手が反発。ほぼ空中分解に等しい形で吉田政権が崩壊する。バースも、苦楽をともにした仲間が干されるのに我慢できず、首脳陣批判を行った。これが最後には響いたのかも知れない。
さてバースの成績の方だが、この年も冴え渡り2年連続三冠王という途方もない記録を作る。
打率に至っては.389と、未だにセントラル記録。4割打者誕生かと大騒ぎになった。
87年は3部門ともに成績を落としてしまうが、これは今までの成績が飛び抜けてよかっただけのこと。.320、37ホーマー、79打点なら文句のつけようもない。しかし、前年までの驚異的な打棒に慣らされたフロントには不満だったかも知れない。
そして88年。開幕後1ヶ月、率こそ残していたが、肝心の本塁打、打点が今ひとつ伸びない。打席で集中できなかった。理由があった。長男の病気である。
水頭症という、頭部に水がたまる難病に罹った愛息のことを気に病んでいたのだ。そしてとうとう開頭手術を行うことになり、バースは帰国を申し出る。チーム状態があまりよくない時だったから球団としては不満だったが、功労者でもあるしゴネられて退団ということになったら目も当てられない。
認めることにした。帰国は5月14日。
手術は終わったが予断を許さないということで、バースはアメリカに残った。面白くないのは吉田監督のあとを受けた村山監督だ。1ヶ月たっても戻って来ないというのは、村山監督にとって信じられない。即刻戻るよう再三促すがバースは首を縦に振らない。業を煮やした村山監督は、「バースがダメなら早く新しいのを獲れ」と新外国人選手獲得を示唆した。
結局、6月27日、古谷球団代表が監督の意向を汲んで、バースに電話で解雇を通告する。
これにはバースも激怒する。これは不当解雇であることをマスコミを通じてアピールし、さらに子どもの病気に関して、家族の医療保険は球団が全額負担という契約になっていたのに、球団はまったく負担していない。もしこのまま医療費を出さない気なら告訴する、と息巻いた。彼は期限を1ヶ月とした。
慌てた球団は7月7日に古谷代表を渡米させ、バースとの交渉に当たらせた。しかし、裏ではバースに代わる新外国人選手ジョーンズとの仮契約を行わせたのだ。おまけに、阪神がバースに提示したのは「一切、払わない」だったから、これでは話がまとまるはずもない。
実はタイガースは、バースが帰国した時点で切るつもりだったという話もある。そこで、5週間後には来日することという覚え書きをバースとの間に交わした。これは、5週間じゃ戻って来られないだろうと踏んだ上でのことだ。バースもこれには気づいて、期限ぎりぎりになって「日本へ戻る」と阪神へ連絡。どうせクビにするつもりだった阪神は慌てる。そこで電話での解雇通知になった、ということらしい。だからバースはその後医療保険問題などで大ゴネした、というわけだ。
言葉通り来日したバースは、阪神側の対応を非難する。覚え書き通りだ、ということだろう。
今度は阪神が困る。おまえがちゃんとしないからだ、と古谷代表を責める声もあった。そして彼は7月19日、ニューオータニの屋上から身を投げてしまうことになる。バースとは家族ぐるみのつき合いだったそうだから、その悩みたるや舌筆に尽くしがたい。
バースもこれにはショックだったろう。そのまま帰国し、現在に至る。今は、兄とともに故郷オクラホマで5万坪の敷地をもつバース牧場を経営している。
ちなみに、本当はバースではなく「バス」と発音するのが正しい。
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