1970年代の外国人選手
60年代、80年代に比べ、この70年代は入団した外国人選手は比較的少な目でした。
というのも、好選手を獲得することが出来たため、とっかえひっかえする必要がなかったからです。フロントも慣れたのか、それとも単に運が良かったのか。とはいえ、それはチームにとってもファンにとってもありがたいことでした。しかしながら、やはり「そんなんいたっけか?」という選手も、当然おりました。
70年代には、タイガースファンには忘れられない選手も登場します。お楽しみに。
フレッド・バレンタイン(Fred Valentine)
68年に、カークランドという強打の外野手入手に成功したタイガースだが、翌年にさらなる補強を図って入団させたゲインズは、口ばかりのスカ野郎でした。看板打者・田淵、カークランドとクリーンアップを組める打者が欲しい!ということで獲得したのが、オリオールズからやってきたバレンタインだった。
このバレンタインもカークランドと同じく精悍な黒人で、しかも当時日本ではまだ珍しかったスイッチヒッターだった。年齢は35歳と、やや不安は残ったが、両打ちとは拾い物だ、とほくそ笑んだ。
開幕から3番を任されたバレンタインだったが、これがからっきし。パワーが自慢のそのバットからは凡打が山積みされた。まだ日本野球に不慣れなのかと、クリーンアップから外してリラックスさせて打たせようとした5月に、やや調子を取り戻したものの、再度3,5番に戻すとやっぱり打てない。
こりゃあ、やっぱりハズレじゃないのかという悪い予感は的中。それでもベンチは我慢して使い続けたが結果は残せなかった。打率も低かったが、期待のホームランが11本では解雇もやむを得まい。
レオン・マックファーデン(Leon McFadden)
ゲインズに続きバレンタインもスカだった。それでも、もう一枚どうしても強打の野手が必要だ。
トレードではそれなりの出血を覚悟しなければならない。となると、やはり外国人選手に頼るしかない。
アストロズからやってきた188センチ89キロの28歳、巨漢の黒人選手はマックファーデンといった。
この選手、その大柄な体にも関わらず俊足が自慢だった。ベース一周13.6秒という韋駄天ぶりだったが、タイガースが期待していたのは絶対的な大砲だった。アテが外れてベンチに見放され、控えに回ることが多かった。ただ、彼がゲインズたちと違っていたのは、それでもくさらなかったこと。
首脳陣の指導を素直に受け、真面目に練習に励んだ。おかげでベンチから見直され、オールスター以降はたびたびスタメンに名を連ねることがあった。
ただ、それにしてもあまりにも長打力がなく、好機にも打てない。首脳陣が期待する外国人選手像とはあまりにもかけ離れていたため、1年で解雇された。チーム状態に余裕があれば、もう2~3年くらい様子を見てもいい選手だとは思いました。
ボビー・テーラー(Bobby Taylor)
なぜこうもスカが続くのか。外国人担当の目は節穴なのか(そんなもん、いなかったのかも知れないが)。新しいのがダメなら、すでに日本でプレーした選手はどうだろう。他球団が見限ったヤツの中に掘り出し物があるかも知れないではないか。
そういう安直な考えの中、おあつらえ向きに前年ドラゴンズをクビになったテーラーがいた。
テーラーはこの年30歳。元ジャイアンツだが、アメリカに戻ってもメジャーに行ける自信はなかったのかも知れない。日本でプレーする意志を持っていたから、阪神のオファーに飛びついた。
このテーラー、174センチとアメリカ人にしては小柄な黒人で、それでも一発長打を狙っての力まかせのバッティングが特徴で、穴も目立った。ガタイもないのに大振りをするから打率が残せない。もちろん長打も少ない。これでは話にならないということで、中日は1年で見限った。そのことは、同じリーグの阪神も知ってはいたと思うのだが、他にめぼしい選手もいなかったのでテーラーを獲得する。
移籍後、タイガース首脳陣の指導が良かったのか、それともテーラー自身が悔い改めたのか、中日時代の大振りは陰を潜め、コンパクトなスイングを心がけるようになった。これが功を奏し、クリーンアップではなく、トップバッターとして活躍した。特に74年は序盤から好調で、監督推薦でオールスターに出場するほどだった。
とはいえ、特筆するほどの成績でもなく、言ってみれば「可もなく不可もなく」と言ったところだろう。
打率もそこそこ残したが、リードオフマンとして十分というほどではなく、あちこち今ひとつ足りない、という印象が残る。阪神もそう判断したのか、そう悪くはなかったが決め手にも欠け、2年で解雇となった。
ジョージ・アルトマン(George Altman)
主砲だったカークランドが去り、テーラーも2年でお払い箱になった。田淵は球界を代表する巨砲に育ったが、田淵ひとりでは荷が重い。歩かされたらそれまでである。田淵のあとを固める必要があった。
先年のテーラーで、日本でやったプレイヤーならある程度使えることがわかったタイガース、またどこかにそういう選手がいないかと探し回る。それも、実績のあるヤツだ。
そんな都合のいいヤツがいるか、と思いきや、なんといたのである。オリオンズで活躍していたアルトマンその人である(ちなみにアメリカ風に発音するとオートマンになるそうである)。
アルトマンはメジャーで991試合に出場、101ホーマーを記録するという本物の現役大リーガーではあったが、68年に来日した時、すでに35歳と高齢だった。
すでに盛りは過ぎたという陰口もあったが、初年度から大活躍、いきなり.320、34ホーマー、100打点は立派。打点王を獲得するとともにベストナインにも選ばれた。ポンコツなんてとんでもなかった。
以降、オリオンズ時代7シーズンで6回が3割以上という見事な成績。ホームランも量産したが、197センチ92キロという体に似合わず、パワーというよりうまくバットに乗せて運ぶ打法だった。シュアで長打力もあり、勝負強い。打撃は文句なかった。守備や走塁は得意な方ではなかったが、その真面目な人柄にふさわしく、長い手足を一所懸命に振り回して力走した。
とにかく、バカがつくくらいの真面目人間で、タバコやアルコールはまったくたしなまず、女遊びもしない。日曜や休日は教会に通うのが趣味という男だ。同時期にオリオンズにいたロペスが、酒も女もギャンブルも全部やるお祭り屋だったのと好対照であった。
といって人付き合いが悪かったわけでもなく、ナインに親しまれたし、ファン・サービスも怠らなかった。
アルトマン・シートを東京球場に設けたこともあり、「足長おじさん」(まあ、実際に脚が長いんですがね。
全身写真見るとホントに長いですわ)と呼ばれて人気もあった。
70年のロッテ初優勝にも大きく貢献した。その年の日本シリーズは巨人と対戦し1勝4敗で日本一を逃すのだが、ここでアルトマンの気質をよく表したプレーがあった。
1勝3敗で迎えた第5戦。ロッテは後がない。その試合でレフトを守っていたアルトマンの前に、フラフラと力のないフライが飛んでくる。例によってアルトマンは全力で駆ける。ショートの飯塚佳寛も打球を追う。
大歓声でかけ声がよく聞こえなかった。アルトマンは、バックしてくる小柄な飯塚に全力疾走状態で激突した。無論、打球は転々と外野に転がっている。しかしアルトマンの心は倒れ込んだ飯塚にしかなかった。意識を失った飯塚の頭を膝に乗せ、盛んに飯塚に呼びかける。もはや球場の歓声はアルトマンに耳には届かなかった。
打球を追ったセンターの池辺巌が振り返った時、走者はすでに一掃していた。この失点が堪えて、オリオンズは敗戦する。だからどうだというつもりはない。アルトマンとはこういう男なのだ、ということだ。
試合後、巨人の川上哲治監督は、このアルトマンの行為に対して一言、「いいプレーだったな」と言ったという。あの場面、アルトマンは試合に参加していない。にも関わらず、川上監督はプレーと評したのである。
そんなアルトマンだが、やはり高齢である。徐々に体にもガタが来る。順調に成績を上げていたが、73年あたりから体に変調を感じ始めていた。体が疲れやすく、下血があったのである。最初は痔疾だと思い、あまり気にもとめなかった。しかし下血はひどくなるばかりだ。翌年、いよいよ症状は悪化する。
その下血のひどさに貧血状態になるほどで、試合が終わると下着は血まみれだった。アルトマンはクリーニングに出さず、大リーガーである彼自らが下着を洗った。ナインに心配をかけないがためである。
だが、すでに限界だった。74年も快調に打ちまくっていたアルトマンだが、暑い7月のある試合、守備位置で意識を失い、バッタリ倒れ込んだ。仰天したナインが駆け寄ると、アルトマンは金田監督に一言「替えて欲しい」と申し出た。どんなに疲労していても絶対に自分から休むと言わなかったアルトマンが、だ。金田監督も顔色を変えた。こりゃタダ事じゃない。
監督のつての病院で精密検査を受け、その結果を聞いたアルトマンと金田監督は文字通り真っ青になった。医師はこう言ったのである。「悪性腫瘍です」。
つまり、ガンである。下血の原因は大腸部に出来たガンだったのだ。呆然とするふたりに、担当医は追い打ちをかけた。「残念ながら日本では十分な治療を施すことはできない。アルトマンほどの有名人の手術を失敗したとあれば、日本の医学が国際的な信頼を失う。ここはアメリカに帰国して手術を受けることをお勧めする」。
こうなっては仕方がない。アルトマンは急遽帰国した。
金田監督としては、これが外部に漏れることを避けねばならない。そこで先手を打って、マスコミを極秘に呼んでうち明けた。「実はアルトマンが治療で帰国することになった。しばらく帰ってこない。だがこのことは伏せて欲しい」と、頭を下げたのである。何かある、とピンときた記者もいたろうが、金田監督に頭を下げられては従うしかない。箝口令が敷かれた。
アメリカでの手術は成功したが、体力はまだ戻っていない。しかしアルトマンはまだやる気だった。
だがオリオンズは、金田監督の意向を汲んでアルトマンを解雇することにした。金田監督なりに気を使い、これ以上プレーさせるのはアルトマンのためにもならないと思ったらしい(これには金田監督の一族が、同じようにガンでやられた人がけっこういたことからきているらしい)。
この情報を聞きつけたのがタイガースなのだ。
タイガースはアルトマンと契約する意向を表明し、アルトマンもそのつもりでいた。しかし、ここで文句をつけてきたのがカネやんである。こっちはアルトマンのことを思って解雇したのに阪神はなんだ、というわけである。本当にアルトマンを獲るのなら、もう吉田(当時の阪神監督)とはつきあわん、とまで言ったが、これにはアルトマン自身も反発し、「私の体のことは私がいちばんよくわかる。金田監督は余計なことをするな」というわけだ。すったもんだがあったが、結局アルトマンの意向が通り、阪神へ移籍することになる。
しかしながら、この年アルトマン42歳。病み上がりということもあるし、さすがに全盛期のプレーを望むにはムリがあった。それでも.274打ったのは立派だが、期待した本塁打は12本止まりで、田淵が歩かされたあとの掃除役には力不足だった。アルトマン自身も限界を感じ、この年で引退。
帰国したアルトマンは、故郷のシカゴで大豆市場のディーラーをやっている。
ハル・ブリーデン(Hal Breeden)
期待していたアルトマンも年齢には勝てなかった。至急、後釜を探さねばならない。さすがに国内には残っていなかった。となればアメリカで探すしかない。右打者と左打者をひとりずつ見つけてきたのだが、これが阪神球団史に残る優良外国人選手だったのだからわからない。
そのひとりがブリーデンである。
カブス、エクスポスを経て入団してきたブリーデンは32歳の一塁手だった。左投げ右打ちという珍しいタイプだったが、ポジションがファーストなのでかえって都合がいい。188センチ91キロという巨漢と、その太い腕っ節から放たれるだろう大アーチを首脳陣もファンも期待した。そういう淡い期待は叶わないのが相場だが、珍しいことにブリーデンは立派に応えて見せた。
来日初年度から、いきなり40ホーマーを叩き込んだ。王を脅かすほど打ちまくり、同僚・田淵を抜き去って、この年は本塁打2位になっている。その長打力を認められ、オールスターにも出た。
2年目は.236と打率が下がったが37ホーマーという長打力は相変わらずだし、2年続けて90打点以上を挙げるという勝負強さも目立った。なお、この2年間はチーム最多本塁打、最多打点である。
まだまだ働けるはずだったが、78年の6月に故障し帰国したが、治療が長引いて日本に戻れなかった。回復が難しいという情報もあり、タイガースはこの年限りで整理している。
筆者しては、あの腕っ節とふくれた頬が印象深く、もっとでっぷりしていると思っていたのだが、案外スマートだったので驚いた記憶がある。脚が長いからそう見えたのだろうが、思ったより腰回りは細かったようだ。つまりブリーデンの打法は、文字通り腕力で打球を遠くへ持っていくというものだったのだろう。率が上がらず三振が多いのもうなづける。
頬がふくれていたのも、常に噛みタバコを口に入れていたかららしい。
それでも、同僚・ラインバックとのコンビは阪神外国人選手史上最強とも言える組み合わせだろう。いつまでも印象に残る選手である。
なお、帰国後は88年からジョージア州の保安官に就任している。
マイク・ラインバック(Mike Reinbach)
76年にブリーデンとともに来日したのがラインバックだ。まだ27歳という若さで、ごついブリーデンに対してスマートな印象の残る選手だった。が、今回ちょっと調べたら、188センチはともかく、なんと88キロもあったらしい。そんなにガッチリしてたかなあという印象。
で、このラインバック、ファイトあふれるガッツプレーで、非常にファンの受けが良かった。走塁もだが、特に守備でスライディング・キャッチを試みたり、フェンスにぶつかったり、よじ登ったりしてのプレーで人気が集まった。で、守備がうまかったのかというと、案外そうでもないらしい。当時、タイガースの主戦投手だった江本孟紀氏の著書によると、彼は鈍いらしいのだ。つまり、打球の判断が遅いので、結果的にぎりぎりのプレーになってしまうということらしい。
だから、普通の外野手ならラクに捕球する打球でも、ラインバックの場合は判断に時間がかかるから、慌てて捕球位置に駆け込む、結果的にファインプレーに見える、ということなんだろうな。
これじゃピッチャーはたまらんだろうと思ったが、著書を読むと、実際ヒヤヒヤものだったそうで。
ま、それでも一所懸命プレーした、というのは、見ている側にも十分に伝わってきた。バッティングも期待通りのもので、在籍5年間で3割を3回クリアしている。本塁打も20本前後は打てたし、打点もよく稼いだ。
印象深いのは79年6月2日の巨人戦。この試合は、かの江川卓投手のデビュー登板だった。
この試合で、ラインバックは江川から逆転の3ランホームランをライトスタンドに叩き込んでいる。
江川憎しで凝り固まった阪神ファンを大いに喜ばせてくれた。
シュアなラインバックが3番、4番には主砲・田淵、5番に一発長打のブリーデン。さらに、中村勝広や藤田平が脇を固めていたのだから、この頃の阪神打線は本当に怖かった。あの、3番バース、4番掛布、5番に岡田の打線も強力だったが、このクリーンアップも決して負けていないだろう。
うまく両外国人と日本人主砲のバランスがとれた打線だったが、これに匹敵するのはカープ黄金時代の3番シェーン、4番・山本浩二、5番・ホプキンスくらいのものだろう。ただ、カープと違い、タイガースは、この打線を優勝に活かせなかった。
ラインバックは5年間、阪神のために働き帰国した。その後はコンピュータ会社に勤めたが、89年にクルマごと崖から落ちるという悲惨な事故で逝去している。
レロイ・スタントン(Leroy Stanton)
ブリーデンの退団後、ラインバック、田淵のクリーンアップの一角を埋めるのが急務になった。
連れてきたのが、メッツ、エンゼルス、マリナーズと渡り歩いたスタントンである。ブリーデンの後釜なのだから一発長打が条件だ。確かにそういう選手ではあった。
オープン戦から気にはなっていたことが開幕後にも出てきてしまう。あまりにも粗っぽいということだ。とにかくブリブリ振り回す。バットに当たらないのだ。シーズン三振数136は当時の日本記録だった。さらに34試合連続三振という、これまた不名誉な日本記録も作ってしまった。
開幕後から極度のスランプで、打率は1割前後をウロウロしていた。当たれば飛ぶのだが、当たらないのでどうしようもない。ファンやマスコミから「打たんトン」などと呼ばれるまでになってしまう。
後半、やや調子を取り戻し、10試合で5ホーマーということもあったのだが、一時的なものに過ぎなかった。23ホーマーはそれなりだが、ブリーデンを見ていた側にとっては今ひとつ。
おまけに三振の山に打率.225ではお話にならなかった。1年で解雇。
帰国後は、1年ほどメキシコでプレーし、その後はブルージェイズのマイナー・コーチを務めた。